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ヴァルド派研究会

Associazione Giapponese di Studi Valdesi / Association Japonaise d'Études Vaudoises

ヴァルド派史(中世編)

【ドイツ・ヴォルムス Worms の宗教改革記念碑にあるヴァルド派の創始者ヴァルドの像】




1.中世のヴァルド派(1173?-1532年)


1-1.創設者の回心

 12世紀に端を発するヴァルド派運動は、「使徒的生活」Vita apostolica を理想としたキリスト教の平信徒たちによる福音主義運動の1つとして位置付けられます。創設期のヴァルド派については今日でもなお不明な点が多いのですが、一般的にヴァルド派を創設したと言われる人物といえば、12世紀のリヨン出身で、裕福な商人であったヴァルド Valdo (羅:Valdesius)のことを指します。フランスのラン司教区における氏名不詳のプレモントゥレ修道会士によって1220年頃に記された『ラン無名世界年代記』 Chronicon Unversale Anonymi Laudunensis や、ドミニコ会の異端審問官エティエンヌ・ド・ブルボン Étienne de Bourbon によって1260年頃に記された『聖霊の七つの賜物について』De Septem donis Spiritus Sancti を参考にすると、ヴァルド派の創設はおよそ次のようにまとめられます。

 「1173年、とある日曜日にヴァルドは路上で吟遊詩人が謳っていた『聖アレクシス伝』 La Vie de Saint Alexis に心を打たれて回心し、自らの財産を投資して知人の聖職者に新約聖書と4人の教会教父による著作の俗語翻訳を依頼、それらを熱心に暗記しては、自ら路上で説教を行うようになった。やがて、彼は自分に共感して集まってきた人々と共に一つの説教団体を形成した。ヴァルドを発端として生まれたこの団体は、聖書に書かれてあることをのみを忠実に実行し、原始キリスト教会へ本質的に近づくことを真の目的としていた」

 ヴァルドとその信奉者たちは許可なく説教を行っていたため、すぐにリヨン司教から注意勧告を受けます。当時、説教活動というものは聖職者の特権であり、一般の平信徒には認められていない行為でした。その理由は、平信徒は聖書に対して十分な神学的教育がなされていない存在であるため、平信徒が説教を行うとカトリック教会の教えに対して誤謬を生む恐れがあったからです。加えて、カトリック教会は説教を行う聖職者を「キリスト教信者を統率・指導できる存在」として位置付け、決められた教区内に配属して管轄しています。それとは対照的に、特別な役職を担わず、各地に散在している数多くの平信徒は決められた枠の中において取り締まることが非常に困難であったからということも理由として挙げられるでしょう。公的に説教活動を続けるべく、ヴァルドたちは1179年にローマで行われた第3回ラテラノ公会議へと出向きます。そして、当時の教皇アレクサンデル3世 Alexander III (在位1159-1181年)に自分たちが用いていた俗語訳聖書等を提出し,正式な説教の許可を申請するという方法を取りました。その際、ウォルター・ マップ Walter Map をはじめとするカトリックの神学者たちから様々な尋問を受けたものの、ほどなくして彼らは教皇から説教の許可を得ることに成功します。アレクサンデル3世 は、ヴァルドたちのことを「私財で聖書を翻訳し、自らキリスト教を布教しようとしている非常に熱心な信者」と判断し、その積極性を買って、特別に許可を下したようです。ただ、カトリック教会側で彼らの行為を監督するためにも、説教を行う際には「毎回必ずリヨン司教の了解を得る」という条件が付加されてい ました。


【リヨンでヴァルドたちが説教を行っていたとされる区域 : 中央右に見えるサン・ニジエ教会 Église de Saint-Nizier の左(南側)に位置する MAVDICTE 通りにヴァルドの家があったとされる】



【現在のリヨンの MAVDICTE 通り : 古地図と同じくゆるやかなカーブを描いている。通りの名前は Rue de la Paulaillerie と改称されている】



1-2.異端宣告

 こうしてヴァルドたちは教皇の許可の下、1180年に開かれたリヨン公会議の席で正式な信仰告白を行い、一つの公認托鉢修道会「リヨンの貧者」として、カトリック教会内における自分たちの正当な地位を確立しました。しかし、説教をするにあたって聖書を全ての規範とするヴァルドたちは、次第に「人 (カトリック)よりは神(聖書)に従う」(使徒言行録:第529節)という考えに傾くようになっていきます。そして、カトリック教会が形成した独自の祭事やヒエラルキーには敬意を示さず、常に全員が上下関係のない平信徒として留まった状態で、リヨン司教の了解を得ないまま、1180年から1184年の4年間にかけて無許可の説教を行うようになっていったのです。彼らの活動は、すぐにカトリック教会の目に止まりました。教会権威を度外視したこの行為により、リヨンの貧者は1184年のヴェローナ公会議において、教皇ルキウス3 Lucius III (在位1181-1185年)から「離教者」として警告されてしまいます。それでも彼らは教会からの警告を無視し、依然として無許可の説教を続けたために、1215年の第4回ラテラノ公会議において彼らは「異端者」として断罪され、ついにはカトリック教会から完全に破門されてしまうこととなりました。結果、彼らはリヨンの街から完全に追放されてしまうのですが、破門されてもなお、彼らは決して自分たちの信仰を捨てはしませんでした。そして、この頃から彼らは21組の遍歴説教師バルバ Barba として、ヨーロッパ各国を訪ねて説教をする遍歴説教を行いながら、特定の場所に留まらないことで異端審問官の目を避けるようになっていったのです。リヨンの貧者の中には男性のみならず女性の説教師も存在しており、これは男性しか聖職者に就いていないカトリック教会にとっては特筆すべき事柄でした。当時のカトリック教会はリヨンの貧者を「ヴァルド派」と呼称しており、このヴァルド派という呼称には、後に「魔女」や「魔術」という意味が付加されていきました。


【マルタン・ル・フラン Martin Le Franc 著『貴婦人たちの擁護者』Le Champion des dames(1488年)に描かれた魔女としてのヴァルド派の挿絵 : 上の魔女の頭上に des vaudoises の文字が見てとれる】



1-3.地下活動

  リヨンの貧者が破門された13世紀初めのこの時期は、教皇グレゴリウス9 Gregorius IX (在位1227-1241年)によって異端審問制度が正式に設立された時期です。しかし、当初のリヨンの貧者は異端審問によるカトリック教会側からの弾圧を全くと言っていいほど蒙ることがなかったようです。なぜなら、当時のカトリック教会は、南フランスで活動を行っていた中世最大の異端ともされるカタリ派討伐に、あらゆる勢力を集中して注いでいたからです。リヨンの貧者への実質的な迫害は、1229年のパリ和約によって、カタリ派殲滅を目的としたアルビジョワ十字軍の派遣が打ち止めになり、カトリック教会がカタリ派の危険性から徐々に解放されつつある1230年から始まったとされます。その後、彼らはカトリック教会の目が届きにくい場所に潜伏することを余儀なくされ、宗教改革運動に参加するまでの約300年間、地下活動という形で信仰を保持するようになっていきます。

 地下活動を行う中で、リヨンの貧者は徐々に独自の組織を構築し、団体で活動するようになっていきます。彼らは年に一度、自分たちの使命について現状を分析し、確認する目的で、全ての説教師(一部、一般信者も参加していた)が集まる会議の場を設けていました。場所としては、一般信者が定住するためのコミュニティを築いたドーフィネ Dauphiné、プロヴァンス Provence、ピエモンテ Piemonte 3ヵ所のいずれかに集まることが多かったとされています。会議が行われる際には、説教者が信者たちから寄進を募り、それを二分割して、一方は貧しい者たちに施し、もう一方は次の一年間の巡礼説教に出向く説教師たちに分け与えられました。説教者が巡礼に出ている間、 一般信者は説教師の生計を支えるべく「労働」に従事するようになります。本来、リヨンの貧者の間では労働による金銭の獲得や蓄財は清貧に反するものとして考えられているのですが、労働に従事するようになった理由としては「リヨンの貧者内で説教師と一般信者という立場を明確に区別した」という制度的な要素が挙げられます。元々、平信徒として説教に従事していたリヨンの貧者の信者たちは、全員が托鉢による使徒的生活を実践していました。しかし、組織化に伴って説教師と一般信者の役割を分けてしまったがために分業化が生じ、説教師の生活を支えるために一般信者が労働に従事するようになってしまったと考えられます。さらに「巡礼説教の減少による定住化」も理由として挙げられるでしょう。1415世紀にかけて、リヨンの貧者は異端審問官に見つかるリスクを避けるべく巡礼による説教を中止し、特定地域における定住生活を行うようになります。そして、巡礼の際の托鉢ができなくなったことで、形式的に使徒を模倣した清貧の生活を貫くこともできなくなってしまい、必然的に労働に従事せざるをえなくなったと考えられます。


【中世ヴァルド派コミュニティの分布図】





1-4.改革思想との接触

 15171031日、 ドイツの神学者マルティン・ルター Martin Luther がヴィッテンベルク城教会の扉に『95箇条の論題』 95 Thesen を掲示したことから、ヨーロッパ全土に神学論争の波が広がり、カトリック教会とプロテスタントの間で教理的、政治的な対立が起こりました。「宗教改革」 La Réforme の始まりです。前世紀の時点でイングランドの宗教改革者ジョン・ウィクリフ John Wycliffe やチェコのヤン・フス Jan Hus らの活動によって改革の萌芽となる運動は既に始められていたのですが、実質的にはルターの起こした行動が西欧社会における本格的な宗教改革運動の幕開けになったと言えるでしょう。当時のリヨンの貧者は依然として地下活動中だったので、初期段階の宗教改革の流れに翻弄されることはなかったようです。しかし、宗教改革の神学における三大原理――信仰義認 sola fide、聖書中心 sola scriptura、万人祭司 sacerdos universal――に対しては、少なからず興味を持っていたようです。なぜなら、これらの三大原理はキリストの使徒たちが本来持っていた伝統的な思想や慣習と一致していたからです。しかし、ルターが示した「聖書中心」という主張は、リヨンの貧者が掲げてきた「聖書中心」とは似て非なるものでした。なぜなら、創設当時からリヨンの貧者は聖書を字義通りに読み取ることを最重要視してきており、聖書の教えの中に人の手による解釈が加えられることを避けていたがために、同じ「聖書中心」といえども、ルターのように教父たちやキリスト教会の伝統に基づいた神学的解釈を含める形式の読解は一切行ってこなかったからです。そして、それ以上にルターの中心的教理である、生前の人間の善行によらない神の恩恵としての信仰のみによる救済を説く「信仰義認」の主張が、「自由意志」liberum arbitrium という教理を有していたリヨンの貧者を大きく動揺させました。なぜなら「自由意思」とは、生前の人間が行った自由な意思に基づく善行によって神の救済に預かれるかどうかが決まるという神学思想であり、「信仰義認」と対立するものだったからです。


【ルターのドイツ語翻訳聖書(ヴァルド派文化センター Centro Culturale Valdese 蔵)】



 リヨンの貧者が宗教改革者と最初に接触するのは1526年のことです。同年、ピエモンテのクリュゾン谷 Val Cluson (現ジェルマナスカ谷 Val Germanasca)にあるロー Laux で開かれた140人のバルバたちによる教会会議で、彼らの代表として選出した2人のバルバをアルプスの北部地方に派遣し、改革思想に関する情報を仕入れてくることが決定しました。この時に選ばれた2人は、ジョルジュ・ド・カラーブル Giorge de Calabre とゴナン・ダングローニュ Gonin d’Angrogne です。彼らはアルプスを越え、スイスのヴォー州にあるエグル Aigle で、1人の宗教改革者と出会います。ギヨーム・ファレル Guillaume Farel、後にフランスの神学者ジャン・カルヴァン Jean Calvin と共にジュネーヴ Genève で新たな教会を創設する人物です。リヨンの貧者が潜伏していた場所とも地理的に近いフランスのドーフィネ州にあるギャップ Gap 出身であることから、彼は幼少の頃からリヨンの貧者のことを認知していた可能性が高いと思われます。この派遣において、宗教改革の神学に関する資料がスイスから谷へと持ち帰られました。それらはラテン語もしくはフランス語で書かれたものでしたが、文字の読めるバルバたちによって改革思想を知る努力が少しずつ行われるようになりました。ファレルの説く教理は改革思想の中でも厳格なもので、リヨンの貧者の教理ともかけ離れていたようですが、資料が読解されるにつれて谷での宗教改革に対する関心はよりいっそう高まっていくこととなったようです。そして4年後、事態は次の段階を迎えることになります。

 1530年、フランスのリュブロン地方にあるメランドール Mérindol において再び教会会議が開かれ、宗教改革についてより多く、より詳細な情報を得るために、再度2人のバルバを派遣することが決定しました。この時に選ばれた2人は、ジョルジュ・モレル George Morel とピエール・マッソン Pierre Masson です。まず彼らは、以前に一度訪ねたことがあり、この時はスイスのヌシャテル Neuchâtel に居を移していたファレルの元へと再度赴きました。そして、彼から別の宗教改革者を紹介してもらいます。その人物はヨハネス・エコランパディウス Johannes Œcolampadius、バーゼル大学の神学教授です。彼らは早速エコランパディウスのいるバーゼル Basel へと向かい、彼と直接議論しました。ここでバルバたちはエコランパディウスからもう1人、別の宗教改革者を紹介してもらいます。その人物はマルティン・ブ ツァー Martin Butzer、ストラスブール Strasbourg の神学者です。モレルたちは直ちに彼の元を訪れ、エコランパディウスの時と同様、自分たちの持つ信仰についてブツァーと議論を交わしました。バルバたちは、自分たちの信仰上の立場や質問を書面で宗教改革者たちに伝えたようです。そして、これらの質問の中でも特に判断に慎重を要したのは、やはり「自由意志」の問題でした。さらに、エコランパディウスやブツァーらは、信仰義認から派生した、救済に与れるかどうかは神によって先天的に定められているとする「救霊預定」Praedestinatio の教理を説いていたため、リヨンの貧者の「自由意思」の教理を批判しました。両者の差異は、救済の概念以外に、秘跡の面にも現れています。リヨンの貧者 は、カトリック教会と同様に7つの秘跡(洗礼、聖餐、堅信、悔悛、婚姻、叙階、終油)を採用しており、特に聖餐の儀式においては、パンがイエスの身体に、ワインがイエスの血になるという実体変化を信じていました。これに対して宗教改革者側では、聖書に書かれている2つの秘跡(洗礼、聖餐)のみを採用しており、聖餐における実体変化も否定していたことから、リヨ ンの貧者と宗教改革者たちとの違いは明確でした。


【ヨハネス・エコランパディウス(左)とマルティン・ブツァー(右)】
  
(image source : http://www.altebilder.net/)



 モレルとマッソンが3人の宗教改革者たちと対談を行った帰路において、マッソンがフランスのディジョン Dijon でカトリック教会当局に逮捕されてしまったため、これらの議論の内容は谷に帰ったモレルが報告書としてまとめたようです。今回、モレルとマッソンを派遣したリヨンの貧者側には、宗教改革に関する情報収集の他に、宗教改革の思想と自分たちの思想との間に見られる相違点を明確化することが真の目的としてありました。その結果、ヴァルド派と宗教改革者たちは、救済の方法(自由意志、信仰義認、救霊預定)、聖書の解釈方法、秘跡の数、聖餐時の実体変化の有無などの点において異なっていることがわかったのです。宗教改革運動に参加するにしても、ヴァルド派にとって、これらの差異は簡単に容認できるものではなかっただろうと予測できます。しかし、モレルとマッソンの派遣から2年後に開かれた教会会議において、リヨンの貧者は宗教改革の思想を受け入れ、改革運動に参加することを正式に決定するのです。



【近代編へ続く】

※ 本ページで使用している画像は、管理人自身が撮影・入手した写真およびヴァルド派文化センターからご提供いただいたものを使用しております(それ以外の画像は引用元を付記しています)


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