ヴァルド派史(近代編)
2.近代のヴァルド派(1532-1848年)
2-1.シャンフォランの教会会議
1526年以降の宗教改革者たちとの対談を機に、リヨンの貧者の間では自分たち本来の教理を守り抜くか、もしくは宗教改革運動に迎合するか、この2つの方向性を巡っての討論が開かれるようになりました。そして、1532年9月12日から6日間に渡ってピエモンテのアングローニャ谷 Val Angrogna で開かれたシャンフォラン Chanforan の教会会議の席において、ついに彼らはスイスの宗教改革運動に参加することを決意します。シャンフォランの教会会議は、ヨーロッパ各地のあらゆるコミュニティからリヨンの貧者の指導者や信者たちが集まったとされているため、大規模かつ重要な会議であったことが想像できます。さらに、スイスからファレルとその同僚であるアントワーヌ・ソニエ Antoine Saunier を招聘していたことから、宗教改革者側の意見を直接的に踏まえた議論が展開されていたと考えられます。シャンフォランの教会会議における正式な議事録というものは残されていません。ただ、議論の結果と思われる不揃いの番号が打たれた「23項目の条項」が記された文書をモレルが残しています。これらの条項はリヨンの貧者における新たな教理や慣習に関係しており、ヴァルド派研究者の間ではシャンフォランの教会会議における議事録に相当するものとして扱われています。会議における決定事項を見る限り、シャンフォランの教会会議は、最終的に宗教改革者側の意見を受け入れる形で幕を閉じたことがわかります。ただ、この決定が実際どのようにして下されたのかは、詳細な史料が残されていないことから、現在もわかっていません。ヴァルド派研究者の間では、シャンフォランの教会会議における宗教改革運動参加への決定は、全会一致のものではなく投票による多数決という手法が用いられていて、保守派よりも革新派の意見が多かったことから下された結論であるとされています。シャンフォランの教会会議の翌年、1533年8月15日にジェルマナスカ谷 Val Germanasca のプラーリ Prali で、シャンフォランの決定事項を最終確認する会議の席が設けられました。これにより、リヨンの貧者は中世から守り続けてきた自分たちの主軸となる信条を放棄し、宗教改革運動に参加することを正式に決定したのです。
議事録の23項目には含まれていませんが、シャンフォランの教会会議では、もう一つ重要な決定がなされていました。それは、ファレルら後の改革派教会の宗教改革運動において用いられるフランス語の公式翻訳聖書の作成です。フランス語訳聖書に関しては、当時既にフランスの神学者かつ人文主義者であるジャック・ルフェーブル・デタープル Jaques Lefèvre d’Étaples が、1523年に新約聖書を、1530年に旧約聖書をそれぞれ仏訳し、刊行していました。しかし、彼の聖書はカトリック教会内で公式に用いられているラテン語の翻訳聖書、通称「ウルガータ Vulgata 聖書」から訳されたものでした。さらに、リヨンの貧者たちが用いていた聖書も12世紀にヴァルドが作成したウルガータ聖書からの俗語訳だったため、ファレルらは聖書への忠実性と翻訳の純粋性を高める目的で、旧約聖書と新約聖書をそれぞれ原語(ヘブライ語とギリシャ語)から直接仏訳した聖書を作成することにしたのです。印刷にかかる費用は、主にリヨンの貧者の信者たちからの献金で賄われました。翻訳作業は、カルヴァンの従兄弟であるピエール・ロベール Pierre Robert、通称「オリヴェタン」Olivétanに一任されることに決まりました。そして1535年6月4日、ヌシャテルで改革派の専属印刷工であるピエール・ド・ヴァングル Pierre de Vingle によって翻訳聖書の初版が印行されます。翻訳者の名前から「オリヴェタン聖書」Bible d’Olivétan と呼ばれるようになったこの聖書は、史上初のフランス語原典訳聖書として、スイスをはじめとしたフランス語圏における宗教改革思想の浸透に重要な役割を果たすようになっていきました。
【オリヴェタン聖書表紙】
2-2.ヴァルド派教会の成立
宗教改革運動に参加することを表明したものの、そこで決定された事柄の全てがリヨンの貧者内で即座に受け入れられたわけではありません。なぜなら、実際のリヨンの貧者の立場は、これまでに自分たちが保持していた教理や慣習と、宗教改革者たちのそれとの間で常に揺れ動いていたからです。加えて、宗教改革運動に参加した直後から彼らは、宗教改革者もしくはそれに加担する者たちを異端として考えていたカトリック教会による迫害を受けるようになったため、信仰活動に目を向ける余裕がなかったことも理由として挙げられるでしょう。それゆえ、リヨンの貧者が完全にプロテスタント化するのは、シャンフォランの教会会議から数えて約30年も後のことです。リヨンの貧者に対する迫害の口火をきったのは1545年に起こった「メランドールの虐殺事件」でした。当時は、イタリアのピエモンテの谷のみならず、フランスのリュブロン地方の谷にもリヨンの貧者のコミュニティが存在していました。1540年にプロヴァンス高等法院からメランドールの逮捕令 Arrêt de Mérindol が発布されると、リュベロンのリヨンの貧者の拠点であったメランドールを攻撃することが正式に決定されました。1545年4月18日、高等法院から派遣された国王の軍隊によってメランドールのリヨンの貧者に対する殲滅作戦が開始されると、この地方のあらゆる人家が破壊され、多くの信徒が虐殺されたようです。さらにはメランドールだけでなく、ルールマラン Lourmarin、キャブリエ Cabriès、トゥールヴ Tourves などの近郊に位置するリヨンの貧者のコミュニティも同様に攻撃されたようです。フランスにおけるリヨンの貧者への迫害を目の当たりにした民衆は、当時のフランス国王であったアンリ2世 Henri II に宛てて、虐殺の犠牲者に対する同情の手紙を送るようになりました。その結果、1551年2月にパリ高等法院において、リヨンの貧者の迫害中止が決定されました。イギリスの中世史家ユアン・キャメロン Euan Cameron は、この迫害の期間を「沈黙の時代」The years of silence と呼んでおり、実際リヨンの貧者の間でも大きな動きは見られません。しかし、迫害が沈静化するにつれて、彼らは徐々に新たな教会組織の設立に尽力するようになります。
【現在のメランドールに残る、破壊されたヴァルド派教会の壁の一部】
リヨンの貧者による教会組織設立は、1554年末から1555年初頭にかけて、ジャン・ベルヌー Jean Verneu をはじめとする改革派の牧師たちがピエモンテの谷を訪れたことに端を発します。彼らはリヨンの貧者に「秘密裏に説教するよりも、公に説教する方が好ましい」と説き、谷における説教の方法を改善しようと試みました。結果として1555年8月、アングローニャ谷のサン・ロレンツォ San Rorenzo とイル・セッレ Il Serre に説教用施設として初の教会堂 Temple が建設され、同年末にはペッリーチェ谷やリュゼルヌ谷にも教会が建設されました。1556年にはアンリ2世に宗教改革の理念に則った信仰告白を提出しており、1558年7月13日にピエモンテで開かれた教会会議では、カルヴァン主義に基づく改革派の教会組織体系にできるだけ即した形で、長老制 Système presbytérien synodal をモデルとした独自の教会組織を設立することが決定しています。こうして、地下活動中に築かれたコミュニティは、徐々に改革派における小教区へと変化を遂げていきました。リヨンの貧者は自ら改革派の一員と名乗ることで、中世から長く続けてきた地下活動に終止符を打ち、創設期に行なっていたのと同様に再び公の場で説教活動をするようになっていったのです。
しかし、リヨンの貧者による教会組織の設立は、1560年から1561年にかけてのピエモンテの谷に対するフランス・サヴォワ連合軍の攻撃によって一時的に中断させられてしまいました。その後、徐々に攻撃が激しさを増していく中で、1561年2月2日、開催場所はどこかわかっていないのですが、約3年ぶりに リヨンの貧者の指導者たちによる会議が行われています。この会議では、相互に助力し、自分たちの信仰を守ろうとする団結意識の確認、特定の事柄に対して有力者の助言なしに同意を示さないようにする個人的権利の位置づけ、現時点で彼らが抱えている問題の状態の考察などが議論されたようです。1561年6月5 日、サヴォワ公エマヌエーレ・フィリベルト Emanuele Filiberto が「カヴール講和条約」Paix de Caveur を発布してリヨンの貧者の自治を認めると、谷への攻撃は中止され、彼らにも教会設立に再び尽力する余裕が出てきました。1563年9月15日 にアングローニャ谷で、続く1564年4月18日にリュゼルヌ谷 Val Luserne で、教会組織のシステムを最終確認するための会議が開かれました。これらの会議は、先に挙 げた1558年の会議で挙げられた条項を批准するものです。そして、最終的に設立された彼らの教会は「ヴァルド派教会」Église vaudoise と命名されているため、この時点で彼らは中世期から用いてきたリヨンの貧者という名称を放棄したことがわかります。同時にこれは、リヨンの貧者のコミュニティにおいて、完全なプロテスタント化が実現された瞬間であるともいえるでしょう。
2-3.ユグノー戦争と対抗宗教改革
カルヴァン主義的思想の普及により、フランスではプロテスタント信者の数が徐々に増加していきました。彼らはカトリック教会側からユグノー huguenot と呼ばれ、一般信者のみならず、貴族までをも巻き込んで勢いをつけていきました。そんな中、1562年3月1日にフランスの貴族ギーズ公 フランソワ François de Guise によるヴァシーのユグノー虐殺事件が発生し、フランス国内はカトリックとプロテスタントが対立する内乱状態に陥りました。ユグノー戦争 Les Guerres de religion の勃発です。ユグノー戦争中、1563年12月4日に開かれたトリエント公会議でカトリック教会は対抗宗教改革の姿勢を明確にし、イエズス会を中心とする各修道会によって、カトリック教会内の改革と同時にプロテスタント思想拡大の阻止を計画していました。そして、修道会はヴァルド派にも圧力をかけるようになります。1583年にヴァルド派の谷へ派遣されたイエズス会は、リュゼルヌ谷に拠点を置いて、ヴァルド派にカトリックへの改宗を促しはじめました。リュゼルヌのカトリック教会の修道院長マルコー=アウレリオ・ロレンゴ Marco Aurelio Rorengo はカプチン会にも協力を要請し、ヴァルド派の谷の政治的中枢であるトッレ・ペッリーチェ Torre Pellice に拠点を移して、ヴァルド派に急進的な改宗措置を行いました。カプチン会の活動はイエズス会以上に積極的なもので、日々説教に専念し、ボッ ビオ Bobbio、ヴィッラール Villar、ロラ Rorà、アングローニャ Angrogna など谷の各地に次々とカトリックの修道院を建設していきました。しかし、ヴァルド派側からは常に反感を買う事態となり、最終的にカプチン会によるヴァルド派の改宗措置は失敗に終わっています。ユグノー戦争は戦闘と和議を交互に繰り返し、混乱の一途を辿りました。そして、1598年4月13日にフランス国王アンリ4世 Henri IV がナントの勅令 Édit de Nante を発布したことで、36年に及ぶユグノー戦争は終結しました。しかし、カトリック側で「教会、つまり我々は、幾世紀も前から存在している。あなた方はたかだか1世紀ほど前からの離教者たちでしかない」 と改革派を批判すると、改革派側は「それは全く違う、改革派教会、つまり真の教会は幾世紀も前から常に存在している。ヴァルド派がその証拠であり、彼らのように改革派信徒はみなローマ教会によって迫害されてきたのだ」 と反論するなど、ナントの勅令発布以降もカトリック教会とプロテスタントの対立は続いていきました。
2-4.ピエモンテのイースター
1655年から1694年までの39 年間は、ヴァルド派にとって激動の時代といっても過言ではありません。なぜならこの間、ヴァルド派史上最も激しい迫害がヴァルド派の谷で行われ、彼らのコミュニティは壊滅状態に陥ったからです。その発端は、1655年4月、サヴォワ公国による軍勢が、ヴァルド派の谷でヴァルド派信者を大量虐殺したピエモンテのイースター Pâques piémontaises にあります。この虐殺事件が発生した原因は、1598年以降のフランスとイングランドそれぞれの国内におけるカトリック教会とプロテスタントの宗教対立の残り火にありました。
フランスでは、1610年のアンリ4世の暗殺後、9歳で即位したルイ13世の宰相としてフランス国内の政治を行っていたリシュリュー Richelieu が、1621年のユグノーの反乱を契機にユグノー抑圧政策を進めていきました。彼は、ユグノー戦争以来のフランス国内における改革派の重要拠点だったラ・ロシェル La Rochelle を1628年に陥落させ、翌年にアレスの講和条約 La paix d’Alès によってプロテスタント側に認められていた権利を大幅に削減しました。その結果、ユグノーたちは動揺し、カトリックとプロテスタントの間の溝は、ますます深まっていったのです。イングランドでは、1625年に王位を継承したチャールズI世 Charles I が専制政治によって国教の統一化をはかろうと、国内のプロテスタントであるピューリタン Puritan を弾圧していました。そして、1642年に王党派 (騎士党)と議会派(円頂党)の対立が起こると、国内は内戦状態に陥りました。これが清教徒革命 Puritan Revolution です。当初は王党派の方が優勢でしたが、議会派のオリヴァー・クロムウェル Oliver Cromwell によって各地で王党派が打ち破られ、降伏したチャールズI世は議会派に囚われの身となりました。1649年1月27日、議会派が国王の処刑を宣告すると、30日にチャールズI世は公開処刑されました。そして、クロムウェルら議会派による勝利は、イングランドのピューリタンひいては大陸のプロテスタントを大いに勇気づけました。
これら両国の動きは、次第にヴァルド派の谷へ暗い影を落としていきます。当時のサヴォワ公国では、サヴォワ公ヴィットーリオ・アメデーオI世 Vittorio Amedeo I が急死した1637年以降、アンリ4世の娘でサヴォワ公妃であるクリスティーヌ・マリー・ド・フランス Christine Marie de France が国内の政権を握っていました。フランスとイングランドにおけるプロテスタントの反乱を見たクリスティーヌは、カトリック色の強いサヴォワ公国の権力に対抗する存在として、自国内のプロテスタント、つまりヴァルド派に危機意識を抱くようになります。そこで彼女は、ヴァルド派の谷に国王親任官を派遣し、ヴァルド派に対する抑圧政策を開始しました。谷ではカトリックの祭式が強要され、さらにはイエズス会士が介入したことで、礼拝用の教会や教会財産の没収、十分の一税の納付などが要求されるようになったようです。サヴォワ公国側の政策に対し、ヴァルド派側ではカヴール講和条約を掲げて、谷での信仰活動の自由を主張する動きを見せ始めます。このように、サヴォワ公国とヴァルド派との対立が引き金となって、ピエモンテのイースターは発生しました。
1655年、政策に対抗するヴァルド派の武力制圧を目的として、サヴォワ公国側は約4、000名の兵士を抱える十字軍を結成しました。中には、サヴォワ近隣のピアネッツァ侯爵の招集の元に集められた一般の民兵や、クロムウェルに敗北してアイルランドから亡命してきたカトリックの義勇兵も含まれていたようです。この軍勢を前にし、武装準備をしていなかったヴァルド派は、当時のヴァルド派の最高責任者であるジャン・レジェ Jean Léger を中心に、戦闘を避ける方法を模索しました。その結果、サヴォワ公国の要求に従うことを選び、服従の意を示すべく軍の代表団に向けて使節を派遣 しました。これを見たピアネッツァ侯爵は、ヴァルド派に対して、谷へのサヴォワ軍の進行を認めるよう要求します。その理由は「サヴォワ公国への忠誠が本当のものかどうかを見張るため」でした。要求を断ることは、すなわちサヴォワ公国への不服従を意味します。当惑しながらもヴァルド派は、最終的にサヴォワ軍を谷に入れることに同意しました。しかし、ピアネッツァ侯爵の本当の目的は、ヴァルド派を見張ることなどではなく、彼らを内部から攻撃することにありました。そのため、非武装のまま軍の進行を許したヴァルド派のコミュニティは、一気に壊滅への道を辿ることとなったのです。
【十字軍により火あぶりにされるヴァルド派の女性信者たち】
1655年4月24日、アングローニャ谷のプラ・デル・トルノ Pra del Torno を急襲し、ヴァルド派の谷へと進入したサヴォワ軍は、アングローニャの南に位置するヴィッラール・ペッリーチェ、ボッビオ・ペッリーチェといった、ペッリーチェ谷の村を次々に攻撃していきました。谷の占拠はそのままヴァルド派信者たちの虐殺行為へと繋がり、略奪や拷問などが行われました。同年5月3 日、ピアネッツァ侯爵が「信仰の証と国王殿下の部隊」«signe de la foi et arme de son Altesse Royale» と刻まれた 1つの十字架を谷に据え付ける式典を行い、ヴァルド派の谷はサヴォワ公国ならびにカトリック教会の占領下に置かれることとなったのです。しかし、ヴァルド派側にも抵抗の動きがなかったわけではありません。ロラの農民の1人ジョジュエ・ジャナヴェル Josué Janavel が、急遽レジスタンスを組織し、わずか十数人の部隊を率いて、ロラに攻め込んできたサヴォワ軍を撃退したのです。このことからロラは、一時的ですがヴァルド派レジスタンスの拠点となり、5月10日のジェルマナスカ谷陥落まで持ちこたえました。プラ・デル・トルノ攻撃の前日、4月23日の時点でフランスに亡命していたレジェは、その10日後の5月 3日、パリからヨーロッパのプロテスタントたちに向けてピエモンテ谷のヴァルド派虐殺の報を知らせました。彼の通達に、各国のプロテスタントたちは即座に反応します。中でもイングランドの議会派は、ヴァルド派の虐殺を「一般市民の虐殺」ではなく「聖人の虐殺」であると考え、ヴァルド派が対面している問題解決にすぐさま着手しました。5月25日、クロムウェルは外交官サミュエル・モーランド Samuel Morland をイングランド大使としてトリノへ派遣し、書記のジョン・ミルトン John Milton が用意したラテン語の抗議演説文をサヴォワ公家の前で朗読させています。さらに、ヨーロッパ各国に宛ててこの問題への政治的介入を依頼し、サヴォワ公国に外交圧力をかけるよう事を運びました。
【ヴァルド派の英雄ジョジュエ・ジャナヴェル】
その間、占領されたかに見えたヴァルド派の谷では、レジスタンスによる抵抗活動が再開されていました。ジェルマナスカ谷陥落後、フランスのクイラ Queyras に一時避難していたジャナヴェルは、その後谷に戻り、バルテルミー・ジャイエ Barthélemy Jahier と共にレジスタンスを再結成しています。しかし、まもなくジャナヴェルは戦闘で重傷を負い、ジャイエは敵の罠にかかって戦死してしまいました。それでもなおレジスタンスは絶えず抵抗を続け、7月26日にトッレ・ペッリーチェを奪還、サヴォワ軍の修道院を焼き払うことに成功します。この出来事と外交上の圧力が原因となり、サヴォワ公国はついに譲歩の姿勢をみせました。そして、ピネロ―ロ Pinerolo の町で攻撃停止の和平会議が行われることになったのです。フランス大使が仲介人を務め、スイスとイングランドの外交官がヴァルド派の交渉役に助言する形で話し合いが行われ、最終的にサヴォワ側が ヴァルド派に許しを求めたことの証明書である恩赦証書 Patentes de grâce を作成する形で、ピエモンテのイースターは終局を迎えました。しかし、サヴォワ側が証書を発行した本当の目的はヨーロッパにおける対サヴォワ公国の圧力を鎮静化するためであり、実際のところヴァルド派に対する迫害はなおも続いていて、一時的な休戦状態に入ったにすぎませんでした。
2-5.栄光の帰還
ピエモンテのイースターから30年後の1685年、フランスではルイ14世が絶対王政によって国を統治し、イングランドではチャールズ2世国王の下で王政復古が実現していました。両国におけるカトリック的支配の再興は、プロテスタント弾圧に拍車をかけることとなりました。その発端となった出来事が、フランス国内のカトリック信仰の強化を図ろうとしたルイ14世による1685年10月18日のフォンテーヌ・ブローの勅令 Édit de Fontainebleau の発布です。これによってナントの勅令が撤回され、フランスではユグノーの弾圧が合法的に行われるようになりました。そして、弾圧が徹底化されると、国内のユグノーはオランダ、ドイツ、イングランドなどの近隣諸国へ次々と亡命するようになっていきました。
この弾圧の波は、当時フランス領内にあったヴァルド派の谷の一部であるプラジェラ谷とクリュゾン谷に押し寄せてきます。1685年の弾圧の際には改革派式の礼拝が禁止され、彼らのテンプルはカトリック式礼拝を行うための3つを残して、あとは全て破壊されました。そして、谷の住民の大部分がフランスのユグノーのように他国への亡命を余儀なくされました。ヴァルド派は再びカヴール講和条約を掲げて抵抗しようとします。しかし1686年1月、当時のサヴォワ国王ヴィットーリオ・アメデーオII世 Vittorio Amedeo II がカヴール講和条約を撤回する1月勅令 Édit de janvier を発布したため、ピエモンテにおける弾圧政策が合法的に進められることとなりました。これによってヴァルド派の谷では、牧師たちが国外追放され、全ての幼児にカトリック式の洗礼を施すことが義務付けられました。もはや彼らには、亡命以外に信仰活動を継続する道は残されていませんでした。この事態を重くみたスイス盟約者団は、ヴァルド派を亡命させようと谷まで説得にやってきます。しかし、ヴァルド派はこれを拒否しました。彼らには過去にレジスタンスを組織してサヴォワ軍を撃退した経験があったため、今回も武力闘争に臨むという選択肢を有していたからです。そのため、ヴァルド派内部では、戦闘用の武装準備と部隊編成が密かに進められていたようです。
1686年4月30日、サヴォワ公国は領内からヴァルド派を一掃する作戦を実行に移し、フランス軍の協力を得て、ヴァルド派の谷を攻撃しました。当時のヴァルド派には、かつてのレジェやジャナヴェルのような指導者的立場の人物がいなかったため、ヴァルド派の防衛線は瞬く間に崩れて、谷はピエモンテのイースターの時と同じく信者の大量虐殺の場となりました。組織的な戦闘は3日で終わり、5月3日にヴァルド派の公証人ダニエル・フォルヌロン Daniel Forneron が、白旗を挙げて降伏を宣言します。ヴァルド派の軍旗はその後もしばらくボッビオに立ってはいたのですが、5月7日には谷の全てのコミュニティが陥落しました。当時14,000人いた谷のヴァルド派信者は、この戦闘で2,000人が命を落とし、3,500人がカトリックへと改宗し、8,500人が捕虜となってピエモンテにある14の要塞や古城に監禁されました。彼らが収容された場所の環境は劣悪そのもので、水や食べ物は十分でなく、飢えや病気、寒さなどによって多くの信者が命を落としたようです。カトリックへの改宗に応じれば解放されたため、改宗の道を選ぶ者もいたのですが、選ばない者は奴隷船に売り払われたりもしました。監禁されたヴァルド派を助けようと、スイス盟約者団はなおも彼らに亡命を勧め続け、9月にスイスからトリノに派遣されたガスパール・ミュラル Gaspard Mural とベルナール・ミュラル Bernard Mural 兄弟が、10月にサヴォワ公爵から亡命の許可を得ることに成功します。こうしてヴァルド派は、翌年1月をもってスイスへと亡命することが決定したのです。
1687年1月17日から3月13日にかけて、ヴァルド派は徐々にスイスに向けて移住していきました。亡命を望んだ 2,700人のうち、最終的にジュネーヴに到着できたのは2,490人で、残りの者たちは冬のアルプス越えの途中で命を落としたようです。スイスに亡命したことで、ヴァルド派はサヴォワ公国の圧政からは解放されました。しかし、彼らにとってスイスは異国の地でしかなく、自分たちのコミュニティを失った根なし草の状態は、少しずつ彼らに谷への帰郷の想いを募らせていきました。ヴァルド派一行は牧師のアンリ・アルノー Henri Arnaud を中心に谷へ帰る計画を練るようになり、1687年7月に計画を実行に移そうとしました。しかし、この時はローザンヌで阻止され、計画は失敗に終わっています。続く1688年6月には2度目の計画実行が行われたのですが、結果は同じでした。ヴァルド派の動きを懸念したスイス側の措置により、この時からヴァルド派を国境から遠ざける政策がとられて、数百名のヴァルド派信者がスイスの北側、もしくはドイツのプロテスタント・コミュニティへと送られていきました。
【スイス亡命時のヴァルド派の指導者アンリ・アルノー】
計画の失敗が続く中、1688年11月にイングランドで起こった名誉革命 Glorious Revolution は、ヴァルド派にとって谷へ帰還する絶好の機会となりました。ルイ14世と対立していたオランダのオラニエ公ウィレムIII世 Willem IIIは、この革命の際にカトリックを信奉するイングランド国王ジェームズII世 James II をフランスへと追放し、ジェームズII世の長女ながらプロテスタント信奉者であったメアリーII世 Mary II と共同統治を行う形で、イングランド王の座につきました。しかし、プロテスタントによる王位継承を認めなかったジェームズII世は、ルイ14世の助けを借りて巻き返しを図ろうと、6,000人からなるフランス軍勢を率いてアイルランドに上陸、これによって1689年8月にイングランドとフランスは戦争状態に突入しました。ウィリアマイト戦争 Williamite war の勃発です。ルイ14世が名誉革命の対策に追われている隙をついて、ヴァルド派は3度目の谷への帰還計画を実行に移しました。1689年8月17 日、アルノーに率いられた900人のヴァルド派信者は、夜闇に紛れてレマン湖西岸のプランジャンPranginsから湖を渡り、対岸のイヴォワール Yvoire からヴァルド派の谷まで約200キロの道のりを、約1ヶ月かけて踏破しました。途中、フランス軍との戦闘があったり、帰還を諦める者もいて、9月11日に一行がボッビオ・ペッリーチェの高台シバウド Sibaudに辿り着いた時には、3割近くの仲間を失っていました。こうして谷に帰還した約600人のヴァルド派信者は、谷に住み着いたはずのカトリック教徒が既に谷を放棄していたことから、戦うことなく容易に谷での生活に戻ることができたのです。
しかし、谷での生活に戻ったのも束の間、ヴァルド派が谷へ帰還したことを聞きつけたフランス軍は、再びヴァルド派を攻撃してきました。これに対してヴァルド派は、アルノーを中心としたゲリラ部隊を組織し、ジェルマナスカ谷の寒村バルツィリア Balziglia に立て籠って、冬の雪山でフランス軍を迎え撃つ姿勢を示しました。雪はヴァルド派側に味方し、フランス軍の谷への進行を妨げる要因となりました。さらに、フランスの衛星領という立場から自らの公国を脱却させたいという考えを持っていたヴィットーリオ・アメデーオII世が、ルイ14世(フランス)との同盟を破棄し、対フランス軍を組織してヴァルド派側に加勢したことから、事態は一気に収束へと向かいました。1694年5月23日、ヴィットーリオ・アメデーオII世は、ヴァルド派の谷を彼らの強制居住区域(ゲットー)と指定する勅令を発布し、当該区域内でのみヴァルド派の信仰活動を容認するようになります。これによってヴァルド派は、カヴール講和条約の時と同様に、改めてサヴォワ公国からその存在を認められたのです。これら一連の出来事は、1710年にアルノーによって記されたスイスから谷への帰還の詳細を綴った書物『ヴァルド派の谷への栄光の帰還の歴史』Histoire de la glorieuse rentrée des Vaudois dans leurs Valleesの表題に由来し、「栄光の帰還」La Glorieuse Rentrée と呼ばれています。こうして1655年から39 年間続いたヴァルド派の激動の時代は、1694年のサヴォワ公爵の勅令によって幕を閉じたのです。
2-6.隔離政策下での「谷」の再建
スイス亡命中の約2年間でヴァルド 派の谷は荒廃していたため、彼らはまず谷のコミュニティ(以下「谷」と表記)の再建に着手しました。1692年1月11日、9人のヴァルド派牧師がサン・ジャン教区のクピエ Coupiers に集まり、帰還後初の教会会議を開きました。会議の際、ヴァルド派教会の運営を担うヴァルド派議会 Table vaudoise が作られ、以後は当議会がヴァルド派の中枢組織となります。1694年にはサヴォワ公爵の勅令によって身の安全を保障され、ヴァルド派「谷」の再建は安全のうちに行われるかに見えました。しかしその2年後、ヴィットーリオ・アメデーオII世が、自国内で長期化していたフランス軍との戦争を終わらせようとルイ14世 と和平を結んだことで、ヴァルド派は再びサヴォワ側から弾圧するようになりました。礼拝や教会会議が制限され、全ての新生児にカトリック式洗礼を施すことが強要されたようです。彼が 1730年に出した勅令には、次のように規定されています。
「谷の全ての住民たちはカトリックの信仰を表明しなければならず、いわゆる改革派教会と言われるものについて、私的、公的を問わず、いかなる表現も許されるべきではない」
しかし、ヴィットーリオ・アメデーオII世による勅令は、ヴァルド派の信仰活動を完全に禁止するものではありませんでした。なぜなら、弾圧の対象は、フラ ンス領のヴァルド派に限定されていたからです。当時、ヴァルド派の谷は、サヴォワ公国領内にある2つの谷(リュゼルヌ谷、クリュゾン谷)と、フランス領内にある1つの谷(プラジェラ谷Val Pragela)で構成されていました。弾圧の影響を受けることになったのは、フランス領プラジェラ谷のヴァルド派のみであり、リュゼルヌ谷とクリュゾン谷のヴァルド派は従来通りに信仰活動を続けていくことができたのです。ゲットー内での身分を保証されたヴァルド派は、この頃からジャナヴェルやアルノーのような、特定の指導者を必要としなくなっていきました。「谷」に安寧がもたらされた状況では、3人の代表者からなる議会があれば、教会を十分運営していくことができたからです。
1789年7月14日にフランス革命 Révolution française が勃発し、アンシャン・レジームが崩壊すると、その余波はヴァルド派の谷にまで届きました。1792年にフランス革命軍がサヴォワ地方を併合し、1789年にサヴォワ公家がピエモンテからサルデーニャ島に追放されると、ヴァルド派の谷は一時的にフランス領となりました。そして、第一帝政期の1804年3月21日に公布されたフランス民法典(ナポレオン法典)で「信教の自由」が説かれると、ヴァルド派のゲットーは法的、社会的に消滅した状態となり、ヴァルド派信者はゲットー外でも説教や礼拝などの信仰活動ができるようになったのです。しかし、ナポレオンが失脚し、1814年5月16日 にサヴォワ公家が再びピエモンテを統治すると、同様にヴァルド派に対する抑圧も復活することとなりました。1831年、サヴォワのカルロ・アルベルト Carlo Alberto Amedeo がサルデーニャ国王の座につくと、ヴァルド派の状況は好転し始めます。1848年2月8日、カルロ・アルベルトは自国の領内に向けてカトリックを国教とする法令を発布しました。これに対してヴァルド派は、かつて発布された自分たちの抑圧政策に関わる全ての勅令を廃止することを、国王に願い出ました。折しも ヨーロッパ各地では、フランスの2月革命の直前で自由主義や国家主義の思想が高揚しており、ヴァルド派も自身の信教の自由を訴えたのです。その結果、1848年2月17日、カルロ・アルベルトの勅令によって過去のヴァルド派抑圧政策の関連勅令は全て廃止され、ヴァルド派は1694年より隔離されてきたゲットーからついに解放されました。彼らは法の庇護の下、谷の外でも自由に信仰活動が行えるようになり、最終的に完全な市民権を得ることができたのです。
【カルロ・アルベルトの勅令(1848年2月17日):以後、2月17日はヴァルド派にとっての「解放記念日」となっている】
【現代編へ続く】
※ 本ページで使用している画像は、管理人自身が撮影・入手した写真およびヴァルド派文化センターからご提供いただいたものを使用しております(それ以外の画像は引用元を付記しています)
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